MisticBlue小説コーナー麗しのサブマリン>02 web版
麗しのサブマリン




 右肩が熱い。
 昨晩の壁当てが影響しているのだろう。
 気分に身を任せてついつい投げすぎてしまったのか、まだあの音が頭の中で鳴り響いている。コンクリートの壁に跳ね返る硬球の音。寂しく、悲しく、それでいて孤高な高音。
(こんなことを、いつまでも続けているんだろう)
 誰も相手のいない一人だけのキャッチボール。
 無論、それはキャッチボールとは呼べず、壁当てなのだ。
 冷たいコンクリートの壁。一方的に壁に描かれた奇妙な星型な目標に向かって投げ続ける。
「夜中に変な音がすると思ったら、またあなたなの?」
 そして、その姿を見かけた公園の隣家の主婦が口を挟む。
「ほら、もう帰りなさい。女の子がこんな夜中にうろうろしちゃ駄目よ。それに、この公園は野球禁止なんだからね」
 その声に愛想良く頷いて、体は反抗するように半ばヤケクソ気味に一球投じた。
 が、コンクリートの壁はただ冷たい音を伴ってボールを跳ね返すだけだった。

 まどろみの中で昨夜の自分の姿が滑稽に映る。
 前に進めばいいものをいつまでも同じ事を繰り返している。
 右肩が熱い。
 痛めてしまったのだろうか、これからも使いつづける大事な肩なのに。
(使わないくせに大事だなんてよく言うよ……)
 自嘲気味に笑い、肩を撫でる。
 ふと、目が覚めた。
 パチリと瞼を開ける。見慣れた布団にくるまっていた体をムリヤリ起こす。カーテンからの木漏れ日が眩しく、思わず手で覆う。
 肩はなんともない。熱いのは夢の中の話しだ。
 リトル時代に石崎相手に躍起になっていた頃をこの肩は覚えているのだ。投手の命ともいえる肩。この肩を通じて投げた速球をあれだけ打った相手なのだから、身体は簡単に忘れない。
(今度の春が来ればハタチになるってのに。まだ小学生の頃のこと、引きづってる)
 暖かい日差しがゆるやかに部屋を照らす。
 きっともう午後を回っているのだろうと枕もとのデジタル時計を覗き込めば、SUNの一四時と表示されている。ヒカリは髪をくしゃくしゃと掻いて、ベッドから起き上がる。
「でも、石崎と対戦してる夢なんて、久しぶりに見たなぁ」
 思わず口に出てしまった。
 自称全盛期のリトルリーグ時代。ヒカリが対戦したバッターでただ一人、一度も空振り三振に取れなかった男の子、石崎隆。
 昨晩の壁当ての影響か、夢の中では石崎と死闘を演じていた。
 夢の中でまで打たれなくたっていいじゃないと悪態をつきながら、雑貨棚の中から適当にカップ麺を取り出す。
 パッケージを破いてやかんを用意すると、待っていたかのようにベッド脇に置いたガラステーブルの上で携帯電話が着信メロディを伴い、わめきたてる。
 振動機能のおかげもあって、ガラステーブルの上で着信すると、今にもガラスが割れそうな音を立てる。マナーモードにしていても震えていれば気づく仕掛けだ。
「おはよー、次の土曜って空いてるー?」
 従姉妹の香織の快活な声が携帯越しに響いた。
「空いてますよー、また急ぎの仕事ですか?」
 やかんのお湯の沸騰具合を見て、携帯を左手に持ち替え、コンロのガスを止める。
「悪いねー、ちょっとねー、一人ダウンしちゃってさー、人手不足なんだわ」
 カップ麺をおもむろにあけて粉末スープをかけ、お湯を注ぐ。
「お礼するからさー」
「あ、じゃあ、おいしいお店紹介してください」
 カップ麺の蓋を閉め、めくれないようにテレビのコントローラーを上に置く。
「いいよー、フランスでもイタリアでも中華でも回らないお寿司でもなんでも任せて」
「そういって、前回マックだったんであんまり期待はしてないんですけどー」
 仕事が終わった、ご飯食べに行こう、しかし、財布を見たらお金がなかったなんてオチだ。仕事は抜け目ないが、プライベートではどこか天然ボケな姉のような従姉妹の香織。
「まあまあ、今回は大丈夫だから、大船に乗ったつもりで任しといて。あぁ、それとも、ヒカリちゃんの場合、野球のチケットの方がいいかな?」
 ヒカリはピクっと反応して、時計を見る。午後二時を過ぎていた。
 日曜の昼下がりとくれば決まっている。カップ麺の重石代わりになっているテレビのリモコンのスイッチを押す。
 チャンネルを適当に流す。どこか一局くらいはやっているはずだ。
 そして見つける、ローカル局の贔屓放送ではあるが、まあそれも悪くない。休日のプロ野球のデーゲーム。
「ご飯の方がいいですね。あたしには一緒に行くヒトいないしー。ま、独りで行くのもいいけど、ね」
 常識がないとコミュニケーションできないというが、専門知識にしたって同じことだ。ファンなら誰でも知っているはずのことを知らない時点で話が弾まない。その誰でも知ってるはずという常識知識の敷居が妙に高いことはいけないことだと思っているが、あまりに濃い知識を蓄えすぎたために、感覚が一部麻痺しているとしかいいようがない。
 自分の振りたい話に誰もついて来れない寂しさを味わう、あるいは違う生き物を見るような目で見られるなら、一人の方がいいと決め込み、ヒカリは友達付き合いを悪くしていた。そのためか、ヒカリの周りには本当に理解ある友人しか残っていなかった。
 赤木香織はヒカリの友人ではなく、年の離れた従姉妹同士だが、いつの間にか先輩後輩のような仲になっていた。理由はなんだったか、それはヒカリも覚えていない。
「あれえ? 最近の入ってきたとか言うバイト君は? 高校球児なんでしょ? サッカー少年だったっけ?」
「って、まだ一回しか会ってないんですけどー」
 半分家族のようで親友のようでもあり、理解者である香織はヒカリの話相手であり、相談相手だ。しかし、趣味はサッカー、主にJリーグが専門で野球は空振り三振とホームランしかわからないらしい。サッカーは見ても欧州派のヒカリだからこそ、またすれ違うのである。
「まあいいや、人が来たから切るね。また連絡するから。それじゃねーバイバイ」
 香織さんは一人で話を終えて電話を切った。ヒカリは適当に相槌を打つだけ。まあ、いつものパターンである。
 台所まで箸を取りに行くのが面倒なので、コンビニ袋の中に入れっぱなしの割り箸を二つに割る。箸を口で咥えながら、カップ麺の蓋を両手であけ、いつまでも待っていられないヒカリは大抵固めの麺が迎えてくれる。
(やっぱ、赤いきつねは固めよね)
 などといって、ずるずるとすする。食欲が先行し、テレビをつけていたことなどすっかり忘れていた。そうだ、香織さんが野球がどうのというから、なんとなく野球の試合を探してしまったのだ。
 改めて、テレビを見る。スコアは三回表、三対〇のようだ。
 解説を聞き流すと、どうやら初回の立ち上がりに攻めたらしい。それ以後は緊迫した試合展開が続いているようだ。
(ほら、微妙なスライダーにひっかけてファーストゴロ)
 そのとき、携帯が鳴った。
 ヒカリは箸を置いて、またかと思いつつストラップを引っぱって携帯を取る。
「はい、もしもし」
「ああ、ヒカリちゃん?」
 中年の女性の声が響いた。バイト先の店長だ。
「今日ちょっと早く来てもらえないかしら?」
「えーとっ、今日ですか?」
「そうよ。この前新しく入ったジュン君に色々教えたいのよ、久しぶりに男の子が入ったからほら、色々……」
 新しく入ってきた高校生の男の子、細野ジュン。店長はもう名前で呼んでいる。相当気に入ったんだとヒカリは当たりをつけている。おしゃれで童顔でかわいいし、礼儀正しい、尚且つスポーツもできる。正に店長のストライクゾーンだ。
 放っておくと店長はいつまでも喋ってしまうのでとりあえず、一旦携帯を耳から離して、ヒカリはため息をつく。
 手早く店長の話をぶった切って、話を終わりにしようと携帯を耳に当て、何気なく泳がせていたヒカリの目がとんでもないものを捉えた。
 テレビの中で、バッターボックスに入ってくる選手。選手紹介のテロップが出るまでもなく、その横顔でわかる。
 封印された記憶の奥底から稲妻のように鋭く浮かび上がる、あの時の光景。あの時、あの時代にも同じように右バッターボックスに向かっていた。

 ――あたしはマウンドでいつもあの眼を見てた。

 睨んでいるのとは違う、心の底まで突き刺さるような、そう簡単に折れ曲がらない強い意志をもった眼差し。
「さて、今日スタメンに抜擢された石崎ですが――」
「調子は悪くないようですね。ルーキーらしく思い切りのいいスイングをしますから、ピッチャーとしてはある意味嫌でしょうね」
 実況と解説が彼を知らない視聴者のために紹介をしているが、ヒカリの耳には何も入ってこない。
 そして、耳元で店長が今日の客はどうだとかこうだとか愚痴っているが、反射的に相槌をつく自分がいる。眼は、心は、懐かしい顔にたっぷりと注がれていた。
「第三球、決まりました。カウントは二―一。今のはどういったボールですか?」
 実況と解説が一球ごとに今のボールの意図は、などと推測を立てるが、ヒカリは知っていた、そんなものは彼に解説する上で役に立たないことを。
 あれから十年近く経っているのに、ヒカリにはそれがつい先日のことだったかのように思える。なにしろ変わっていないのだ、この石崎という男は。
(ただ、でかくなっただけ)
 そして、ピッチャーが振りかぶって、ピッチングフォームに入る。
(……打たれる!)
 勘。それもなんの裏付けもない直感の中の直感。
 ヒカリが石崎と対戦していたとき、いつも打たれる直前に感じる恐怖。それが、時を越え、テレビモニタ越しにヒカリの肌を襲った。
 ぞわ、と鳥肌が立つ。
 石崎の自信満々のスイングは相手ピッチャーの速球を見事に弾き返し、左中間にライナーで突き抜けていく。弾道の低さから、そのままフェンスに激突、左翼手がフェンスに跳ね返ったボールを捕まえ、二塁手に送球。
 石崎本人はセカンドストップ。余裕の二塁打だ。
 当の本人は表情を変えずに、ヘルメットを被りなおしている。
 ヒカリは身体が熱くなっていくのを感じ、思わず携帯をぎゅっと握る。
 あのスイング、あの自信に満ち溢れたスイングを空振りさせたときの喜びが堪らないのだ。あの快感を味わうためにピッチャーをやっているようなものだ。
 自信満々のバッターを空振り三振に討ち取って、相手が悔しがってバットを叩きつけようものなら、それこそ投げがいのある相手といえよう。
 この手で、この腕で、全力で投げた速球を夢中になって振りぬくバッターがいるからこそ、野球が楽しいのだ。
 短かったヒカリの野球人生の中で最高のバッターである石崎隆。
 ヒカリのどんな球をも打ち返し、ヒカリの投球に一度も空振り三振をしなかった最強の打者。
(あの界隈じゃ、石崎以外三振を取れない日なんてなかったのにね)
 テレビカメラが塁上の石崎を映すたびに、ヒカリは凝視する。
 そして、ヒカリの知ってる限り、あの界隈では、最高のピッチャーだった。俗にいう、エースで四番というチームの中では頭一つ、いや、二つも三つも抜きん出ていた。
 今は打者に専念しているようだが、あの当時の石崎隆という投手はヒカリのさらに上を行くピッチャーなのである。せめて、打者としての石崎を抑えるとヒカリは躍起になっていたものだ。
「それが今じゃ、プロ野球選手」
 つぶやいたつもりはないが、自然と口から漏れたようだった。
 石崎がドラフト下位でプロ球団から拾われた時にヒカリはテレビ越しに喜んだ。
 それが一年前だというのに、まるで昨日のことのようだ。
「え、なに、ヒカリちゃん、なにか言った?」
 携帯電話の向こう側から店長の声が響き、ヒカリは我に返った。
「まあそういうことだから、今日は一時間早く来てね、待ってるから」
「はい、はい。それじゃ失礼します」
 ヒカリはいつものように合わせるように適当に返事をしてデンワを切った。
 なんだかよくわからないが、とにかく一時間早く行けばいい。そういうことらしい。
 ヒカリは寝そべってテレビモニターを見つめる。
 そこにはスリーアウトでチェンジになり、ベンチに下がる石崎隆の姿があった。
 テーブルの上の赤いきつねの麺はヒカリの態勢よりも伸びていた。


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