MisticBlue小説コーナー麗しのサブマリン>03 web版
麗しのサブマリン




 沈みかけの夕日が河川敷を照らしていた。
 自転車を押しながら遊歩道を歩くヒカリのハンドバッグから今日何度目かの着信メロディが鳴り響く。
「あー、もしもし、いやそのー、自転車がパンクしましてー、すいません、急いでいきます」
 自転車の故障時に急ぐも何もないのだが、そういっておかないと、気の短い店長がさらにヒステリーを起こす。ヒカリはため息をついた。
 なぜにバイトの時間を忘れるほど熱中してあの試合を見ていたのか。
 気が付けば試合終了まで見てしまった。そこで店長からデンワがかかってきたわけだ。
 極めつけは愛用自転車アルベルトのパンクである。このアルベルトはなぜか急いでいる時に限ってガラスの破片や画鋲を踏んづけてしまうのだ。メーカー曰く、パンクしにくいつくりらしいが、肝心なときに役に立たないときがある。
 この役立たず! といって蹴飛ばしたくなる気持ちを抑えながら、ヒカリはアルベルトのハンドルを押していった。
 長い長い河川敷の遊歩道の直線に市営のグラウンドがあり、その脇を歩いていると、時折り耳に入ってくる声がある。
 NとYのロゴが縫われた紺色の野球帽のツバをふと上げると、グラウンドで野球やサッカーを楽しむ人々が目に映る。今日はいい天気だし、さぞや楽しいだろうと適当なことを思いながら、やはりアルベルトを押していく。

「あ、あぶなーい!」

 ヒカリは後方から少年の叫びを聞いた。
 まさか、それが自分宛ての声だとは露にも思わない。
 風を切り裂く音が右後方から聞こえたなっと感じた瞬間、ヒカリの後ろ右肩を貫くようにボールらしきものが激突した。
 ヒカリはその勢いに押され、アルベルトごと前に崩れ落ちる。ボールの当たった後ろ右肩も痛いが、車体に圧迫した胸に鈍痛が響く。
 ヒカリは「いたたた……」と呟きながら上体を起こして現状把握に努めた。
 前見て右見て左見て、後ろを見て……、そこにいた。
 野球帽を逆さに被る小学生らしき男の子。気まずそうに立ち尽くしている。
 ヒカリの倒れた傍の雑草群に軟式球が転がっているところを見ると、取りに行きたいが、どうしようと迷っているのではないかと、ヒカリは予想を立てた。
「ちょっと、今あたしに当てたの君?」
 気づかないうちに声音が強くなっていた。
「う……」
 彼は言葉に詰まっていた、そんなに怖い顔をしているかと思うとできるだけ平静を装うようにしたいが肩の痛みはひいてくれない。しかも利き腕の右肩。大事にしているところだけに荒ぶる心はなかなか収まらない。
「す、すいませんでした!!」
 彼は帽子をとって謝った。
 ヒカリは拍子抜けした。
(これくらいの年の野球少年っていうのは素直じゃないと相場は決まっていたはずなんだけど)
 時代が変わったかのか、あるいはたまたまそう思い込んでいるだけなのか。
 ここで目くじら立てて説教している暇もない。ヒカリは素直な態度の少年に気を良くしてボールを拾った。記憶の中の誰かと比較しても意味は無い。今は今なのだ。
「これ、キミ達の?」
 少年は頷く。
 ヒカリは軟球をぎゅっと握った。かなり黒ずんで砂がついて埃っぽいし、傷跡だらけだ。それでも使いつづけるのかと少し感心しながら、少年と距離を取った。
 少年は近づこうとするが、ヒカリがそこに立っていてと適当にジェスチャーで指示する。
 距離にして十五メートル。少し、近いかもしれない。
 ヒカリは軟球を握って、振りかぶった。
「キミはね、ピッチャーの利き腕にボールぶつけたんだよ。その責任はとってもらうからね」
「は? ぶつけたの、俺じゃな……」
 少年の弁解が終わる前にヒカリは投球モーションに入っていた。
 地を這うようなアンダースロー。腕が後ろから前に半月を描くように大きくしなる。
 地面すれすれから飛び出した球を前に少年は反射的にグローブを差し出したようだったが、ヒカリはにやりとする。
 少年の手元でかくっと曲がりながら落ちたのである。変化球だった。
 斜め下に落ちながら伸びるボールを少年は防げなかった。わき腹をえぐり、彼の後ろにボールが転々としていく。
 少年はわき腹をさすりながら、イラついた表情でボールを追いかけていった。
 ヒカリは満足そうにアルベルトを起こして道に戻る。
 だが、携帯の時計が目に入ると途端に頭が冷静になった。
(急がなきゃ。あたしはここにいていい人間じゃないんだから)
 楽しそうに練習する人々を見ないようにした。帽子を深く被って。


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