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麗しのサブマリン


 8

 姿見に映ったこのコは、誰だろう。
 黒いアンダー、紫色で細いラインの入る白いユニフォーム。
 帽子には、ファルコンズのFとボールを組み合わせたロゴを刺繍している。
 このロゴは――どこかのプロ野球チームとそっくり。
 ――ああ、だれかファンの人がいるんだ。
 くすりと笑ってしまう。
 アマチュアの草野球チームとはいえ、シンプルなデザイン。ヒカリは割と気にいった。
 白地は汚れが目立つが、ユニフォームにいたってはヒカリの好きな色だ。
 ファルコンズのユニフォームに身を包んだ自分自身の姿で颯爽とシャドウピッチングを試みたりもする。モーションのチェックというよりは、姿見に映った自分のユニフォーム姿、投球している姿にニヤニヤしてしまう。
(笑ってる)
 自然と笑顔がこぼれていることを確認して、ヒカリはやはりという気持ちになる。
(もう、十年だもんね)
 野球を辞めてから、いや、チームから離れて、そろそろ十年が過ぎてしまうところだった。
 野球自体はやめてないと心の中ではおおきくうなずく。その証拠にキャッチボールだけは母に隠れて父親と河川敷などでよくしていたものだ。最近はサボりがちの週一回ランニング、あるいは簡単なトレーニングだって、続けていたつもりだ。体がやわらかいのも手伝って徐々にきちんとしたフォームになっていくアンダースローを、投げれるだけの足腰を鍛えたつもりだった。
 くいくいと腰を捻って、何気なく鏡を覗き込めば、ぼんやりともう一人の小さな自分が映っていた。
 リトル時代から同じ姿見を使ってきたためだろうか。
 ユニフォーム姿でこうやって同じように覗きこんだ時代は遥か昔だが、昨日のことのようだ。
(我ながら、大きくなったよね)
 背が伸びた。手足も長い。割と細めで、胸も人並みにある。女の子的なスタイルにはそれなりに勝負できると自負している。
 だが、野球をやるためには間違いなく細すぎる。
 女と男では体付きが違うのはわかりきったことだ。いかに初歩的なトレーニングは積んできたとはいえ、筋肉隆々というわけではない。
 健康的に鍛えられ、それがスタイルのよさを演出しているのはいい。ただ女のコ的ではない出るところが出てしまえば気恥ずかしくもあるから、過度なことは遠慮している
(当たり前だよね、女の子なんだから)
 ユキから貰ったファルコンズの写真にはやはり太めでパワフルなオヤジ、ヤクザ顔負けの強面のお兄さん、無骨で頑強なオジサンなどが映っている。
 どう考えたって、この角の取れた丸みのある女の体で体当たりしたら、間違いなくふっとばされてしまうと不安になる。
 同じように、どんなピッチングをしても簡単に打ち返されてしまうのではないか、自慢の直球も、ピンポン球の様にあっさり、とんでもない飛距離を伴って打ちかえされてしまうのではないかという不安に襲われる。
 ぱっと見の非力さだけはどうしても拭えない。
 自分自身でそう思うのだから、やはり周囲の目はもっと厳しいだろう。
 それでも、ヒカリはグローブとボールを手に取る。
 気持ちで負けたら、勝負にすらならない。
 マウンドの上で挫けない。
 ヒカリのピッチャーとしてのポリシー。
 例え、プライベートなことでつまずいても、マウンドの上では超強気。
 打たれても打たれても、次は抑える。次は三振に獲る。
 それがムリなら、せめてアウトにする。そんな自分でいられることがなによりも楽しい。
 ピッチャーという最高のキャラクターを演じるために、マウンドに戻れる日が来れるということを考えるだけで、やはり自然に笑顔がこぼれる。
 だが、亡霊の様につきまとう黒い影がある。
 目をつぶっていると、誰かが後ろでつぶやいている。
「お父さんの様になりたくないでしょう? 野球に人生かけて、野球に左眼奪われて、それでも野球を捨てられなくて、あがいてあがいて誰にも見向きされなくなっても、バットを振りつづけて、最後には家族を放ってでも他所様の子供達に野球を教えてる。ウイルス性の伝染病と一緒よ、誰かに感染そうとするの」
 残念ながら、そのウイルスはヒカリに遺伝している。
 どうせ身にならない、つまらないこだわりを捨てて普通に活きて欲しいと願う母の気持ちはわからないではない。
 ――そうじゃない。違うの。
 目をつぶって、首を振る。
 静かな、自分の部屋で。
(私にはこれが普通)
 空気を吸えなければ窒息するのと同じ事。
 そう思って、母にこっそり隠れて父親と投球練習した時の思い出が走馬灯の様に流れる。
 高校生になってストレートが伸び悩み、父親のこれじゃ打たれるなの一言に頭きて、アンダースローに変えた。
「対戦することもないんだから、好きなように投げたい」
 と、いくらか自嘲的にフォーム改造にふみきる。
 下手投げの往年の名選手ミスターサブマリンと評されるような選手のビデオを擦り切れるまで見る。もちろん、父親のコレクションである。足の上げ方下げ方、間の取り方、腕の上げ下げ、重心移動にリリースポイント。ひとつずつ体に覚えさせ、高校を出る頃には流れるようなフォームになった。
 バイトで貯めたお金からちょこちょこと野球経費と名づけて関連書籍を買い、読みふけっていたりもした。
 ボールに対する指のかけ方なんかよく参考写真と見比べていた。毎晩のコンクリートの壁に付き合ってもらって投球練習。おかげさまで父親はそんなヒカリの投球フォームにぞっこんだ。
「おまえだったら、ミス・サブマリンか?」
「え〜、レディ・サブマリンの方がかわいいよ」
 ほとんど自分のための、自分が演じていて楽しい観賞用とばかりにおもっていた美しきサブマリン。
 活かせる時がきた。
 投げれる時がきた。
 ヒカリはボールがつぶれんばかりにぎゅっと握った。
 感傷に浸るにはまだ早い。
 勝負はこれからだ。
 もう、コンクリートの壁とはお別れだ。
 一人じゃない、キャッチボールは二人以上でやるものだし、一チーム九人、試合になればその倍の数。
 受け取ってくれる相手がいるのだから、これからは野球が出来るのだ。一人きりの投げ込みでは無くて。


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