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麗しのサブマリン

13

 交差点の信号が目の前で赤になった。
 急いで歩道を渡り歩こうとする人がいる中、ヒカリはガードレールにもたれる様にゆったりと歩みを止める。焦る必要は無いのだ。
 やがて、青になってやはりゆっくりと足を踏み出す。歩幅は変わらないが、速度は若干速いかもしれない。体は前に行きたがっているようだ。
 ――一週間後か。
 今度は討ち取ると何度呟いただろう。
 交差点の次のT字路の角のお店がアルベルトを預けた海老原自転車店。
 夕焼けに染まった秋の空に勇み足な街灯が灯っている。
 店内を確認せずにガラス戸をがらりと開ける。
「おじさーん、出来てるー?」
「おう」という返事を聞く前に、ヒカリはたじろいだ。
 お客さんがいる、というのはよくあることだ。
 問題はそれが誰かということだった。
 豊かな黒髪にぱっちりした目つきできょとんとした母がいた。頭の回転が鈍いのは相変わらずのようでヒカリの姿を確認しても不思議そうな顔をする。
 ヒカリのガラス戸を持った手が震えた。
「あらあ、偶然ね」
「……わしが呼んだわけではないぞ」
 ヒカリのアルベルトと似たような症状なのかもしれない、やはり海老原老人は母親用ののママチャリの前輪のチューブをいじっていた。
「さすが親子だな、症状がそっくりだ」
「あら、ヒカリの自転車もパンク? もうやあねえ」
 ヒカリは適当に微笑んで、アルベルトのスタンドをあげる。
「じゃあ、お母さん、あとはよろしく」
 請求は、という意味で何事もなかったようにアルベルトを引っ張って、自転車店を出ようとした。
 が、
「あら、なあに、その格好」
 ヒカリは思わず舌打ちした。
 一番見られてほしくなった人に見られてしまった不快。ごまかす言葉も思い浮かばず、ただ、汗がひんやりと冷たく背筋に走る。
 ヒカリがどんな格好をしているか、思いつくまでに時間がかかった母親だが、それとわかると、作業をする海老原老人の前を横切ってヒカリの前に飛びついた。
「野球、やってたの?」
 ヒカリは黙って頷いた。
「……ゴメン、相談も無しで」
 それだけ言って、荷物を載せて、ペダルを漕ぐ。
「ちょっと、ヒカリ!」
 上ずって呼ぶ声を背中に聞いて、ヒカリはわざとらしく角を曲がった。

 アルベルトを乱暴に止め、逃げるように自分のワンルームマンションに戻ると、荷物を玄関に叩き落した。
 ついでにカギも閉める。チェーンロックもしっかりと。
 スパイク代わりのスニーカーを適当に脱ぎ散らかし、同時にユニフォームのボタンに手をかけた。
 途端に着ているのが嫌になった。
 汗が気持ち悪い。
 今日は特別な日なのだ。今日ぐらいはこっそりとしていたかった。好きなように動いていたかった。
 ――横着なんてしなければ良かった。なんでもいっぺんにやろうとするから、こうなるんだ。
 単なる偶然だろう。
 だが、注意力散漫になっていたのは確かなのだ。
 お店はガラス張り。店内の様子など、少しのぞけばすぐわかることだ。それに、親子で利用しているところなのだ、母親の来店などよくあることだろう。少し考えればわかることだ。
 清く流れる川の前に突如現れた堤防は流れを止めて、停滞させる。停滞する気持ちはやがてくすんでいく。
 留まっていられない体質なのだ、昔からそうだとヒカリはぶつぶついう。
 一球投げたら次のボールのことを、一人アウトにしたら、次の打者をどうやってアウトにするかを真剣に考える。だから、テンポ良く進まないときは調子が悪い。
 こうやって、気持ちがせき止められるときもまた同じだ。
 ヒカリは熱いシャワーを浴びて、気持ちを落ち着ける。
 きっとかかってくる母親のデンワを受け取るのが憂鬱でしかたがない。風呂場の曇った鏡は間近に覗き込んでもヒカリの表情を映してはくれない。
 蛇口は楽でいい。捻れば簡単に水が出るし、止められる。だが、人の気持ちはそうはいかない。
 ましてや、母の野球に関する思いは深い。
 父親がどんなことがあっても野球が好きなだけに、母親はどんなことがあっても嫌いなのだ。父親が野球でがんばればがんばるほど、母親は野球嫌いになっていった。その過程をヒカリは知っている。なにしろ、ヒカリ
という名前は父親の失った片目の光の生まれ変わりというのが名づけ理由らしいのだ。デッドボールを受けて、隻眼のスラッガーとなってしまい名声を一気に地に落とした父親。それでもあがく。結果が出るわけも無く、落ち込む一方。純然たる野球狂の父はいわゆる普通の生き方ではない。苦労してでもまた野球で日の目を浴びようと今でも希望を抱いている。だが、母親はそうではない。普通の生活に憧れた一人の女性だったのだ。
ヒカリはどちらの気持ちも備えているだけに、どちらの味方であり敵ではない。  だから、父親からキャッチボールをやろうといわれれば、何百球でも受けるし、野球なんてやめてしっかりいい学校に入りなさいと母から言われれば、受験勉強だって寝ずにやる。
 ――結局、なにがしたいんだ! あたしは!
 濡れた髪をぐしゃぐしゃにして、気を吐く。
 立ち込める湯気のせいで周りも良く見えない。
 だが、いつまでもこのままではいられない。進まないといけないのはあきらかなのだ。
 ピッチャーは自分の投げる球でなければ危機を脱しない。
 まずはボールを放るのだ、ストライクかボールかが問題じゃない。
 気持ちいっぱいのスピードボールで空振りに討ち取れるかもしれない。
 希望は希望、だが、じっと怯えるだけではなにも解決しないのだ。
 ヒカリは風呂場のドアを半開きにして、手探りでバスタオルを探した。


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