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麗しのサブマリン

17

 空を見た。
 雲がだいぶ厚くなっている。
 ――降らないといいな。
 腕時計を見た。
 ――間に合うか?
 石崎は球団事務所を出て、タクシーを捕まえた。
 「駅までお願いします」と発する声色がいつもより強かった。不思議と力が入る。付き合いの草野球とはいえ、いくら仕事で遅くなったとはいえ、欠席したくはない。
 “あいつ”はどんな理由があっても、逃げたと罵るだろうと石崎は予感する。
 脳裏に蘇る少女と目に映った彼女の姿にギャップを感じるが、面影がないわけではない。
 ――目つきなんて、変わっていないじゃないか。
 打ち負かしても、打ち負かしても、次こそは次こそは――そう挑んできた、あの頃と。
 きっと工夫に工夫を重ねたであろう投球を、いとも簡単にホームランを打ってやった感触。この手が覚えている。それでも諦めずに泣かずに何度も立ち向かってきた、西原ヒカリ。
 それがデッドボールひとつで、グラウンドを離れるとは思ってもいなかった。
 自信満々の速球を完膚なきまでに打ち崩してマウンドで泣かせてやろうと思ったのにもかかわらず、逃げるようにマウンドから去っていった。
 ――やはり俺が悪かったのか。
 あの死球がなければ――とは考えたことはあるし、確かに当てたのは悪かっただろうが、その程度でやめるとは当時では考えつかなかった。それほど、野球が生活の中心だったはずだと石崎は考えていた。しかし、それは思い込みだったのかもしれないとも思う。
 中学に入って、シニアに入ったという噂も聞かなければソフトをやっているという話も流れてこなかった。
 腰掛けにすぎない野球なら、相手にする必要はない。
 そう思っていた。
 だが、いつしか、インコースが投げられなくなった。
 西原ヒカリを失わせた投球は罪深いものだったのだろうか、頭より先に身体が二度目のライバル喪失を防ぐアラームを鳴らしていたのかもしれない。
 ストライクが入らない。
 西原ヒカリという好敵手を失った悲しみの反動とは思いたくなかった。そもそもレベルが違ったのだ。そのはずなのに、一向にインコースのストライクが決まることがなくなり、ピッチャーを辞めざるを得なくなった。
 石崎は物思いにふけりながら、ふと、フロントガラスに目を向ける。
 赤信号だった。
 ――たとえ時間にまにあったとしても、もし、あいつがいなかったら、なんのために?
 答えは決まっている。
 その程度なら、二度と組することはない。ただ単なる幼馴染で終わってしまうだろう。
 あるいはボールをぶつけた人、ぶつけられた人。
 青信号になり、タクシーの運転手は無言でアクセルを踏む。
 加速する車内で、石崎の意識も高まってきた。
 ――出てくるのなら、打ち崩せばいいだけだ。迷うことはない。
 出てこないのなら、もう、会うことすらないかもしれない。
 再び、タクシーは止まった。渋滞だ。
 石崎は舌を打った。

 戸締りをする前に、空を見た。
 灰色の雲が一面を覆っている。
 かすかに雲間からスポットライトのように陽光が大地に降り注ぐ。
 ――ほら、天気も迷っている。
 雲行きの怪しさにふてくされながら、窓を閉める。
 欲を言えば、雲ひとつない晴天の下で空気をいっぱい吸いこみたかった。そうすれば、気持ちも晴れやかになるかもしれない。
 ヒカリは自答する。
 ――決めたんだ。
 カーテンをぴしゃりと閉めて、姿見に立つ。
 映っているのは細野ファルコンズのユニフォーム姿のピッチャー、西原ヒカリ。
 グローブを抱いて、帽子を被る。
 ヒカリは目をつむって、自分の投げる姿を想像した。
 相手打者は、石崎隆。
 ヒカリは目を開ける。息を吸い込む。
 顔を上げて、家を出る。
 力一杯の投球をするのだと、自分に言い聞かせる。
 荷物を忘れないようにチェックし、マイバットをつかんだ時、ふとした違和感。
「あ、全然素振りしてないや」
 投げることに夢中で――バッティングの練習はほとんどしていない。
 途端に恥ずかしくなって、体があつくなる。
 滝さんのボールに当てることは出来たが、ボテボテのピッチャーゴロ。あれ以上の速さ、球威のある球だと全打席三振という不名誉な記録が残りそうだ。
「いいのいいの! あたしはピッチャーなんだから!」
 いいわけがましくアルベルトに跨る。
 このセリフだけは昔から変わってない。
 まったくわがままなことだ。



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